マティーニは大人の味
「みんな、1杯ずつなら奢ってあげるー」
そう言われて連れていかれたのは、名古屋駅にあるホテルの最上階にあるバーだった。
入社1年目の何かの会で、ホテルのビュッフェに行った。飲みより食べる会だったので、「ちょっと飲みたいね」って先輩と話していたら、上司が「連れてってあげる」と言ってくれたのだ。
「すごいね!」
「めっちゃオシャレー!」
最上階のバーというシチュエーションで、みんなのテンションはこれまでにないくらいに上がる。
「何にするー?」
メニューを差し出されたが、よくわからなかった。チェーン店の居酒屋か、それに毛が生えたくらいのオシャレ居酒屋でしか飲んだことがない。ビールとか酎ハイとか、カシスオレンジとかモスコミュールとか……見慣れた文字を探してみるけれど、見当たらない。先輩たちは、それぞれオーダーをする。
「マティーニにしようかな」
私はメニューとにらめっこしながら、どうしよう、と焦っていたら、隣に座っていた先輩がマティーニを注文した。
「あ、私もマティーニで!」
映画やドラマで聞いたことはあるけど、口にしたことはもちろんなかった。でも、ちょっと興味がある。
「マティーニです」
目の前に差し出された三角形のカクテルグラスの中には、透明な液体。その中に、ちっちゃい串に刺さった丸い……何かが入っている。
「みんなそろったー? じゃあ、カンパーイ!」
少しの衝撃で壊れてしまいそうなグラスを、おそるおそる合わせる。
オシャレっぽいのはわかるけど、初めて目にする飲み物にドキドキしながら口をつける。
うっ……。なんだ、これ。
軽く口に含んだ液体は、「俺、アルコールだぜっ!」と、主張していた。飲めないことはないけれど、美味しいと思えない。口をつけるたびに、「んーっ」と口を横におもいっきり引きつらせながら、喉の奥に押しやる。喉を通過するときも、刺激がすごい。
もっと知っている飲み物にすればよかった。名前だけで選ぶんじゃなかった。
マティーニって、大人の飲み物なんだな。
52階からのとびきりの夜景を見ながら後悔をした。
それが、マティーニとの最初の出会いだった。
マティーニとの最初の出会いから数年後、マティーニの中に入っていた丸い何かがオリーブだということも知り、行きつけのバーもできて、お酒もいろいろ飲むようになっていた。
カラカラカラカラ。
氷とガラスがぶつかり合う、小気味いい音がする。
ミキシンググラスと呼ばれる、ロックグラスよりひと回りかふた回り大きいグラスに、氷がいっぱいに入れて、グラスの中をかき混ぜている。
かき混ぜる動作が「ステア」ということも、このバーに通ううちに覚えた。
持ち手が螺旋状になっているバースプーンを器用に動かしている指先を、ついじっと見つめてしまう。
次は人差し指と中指で支えられた、砂時計のような形をしたメジャーカップにジンが注がれる。次の瞬間には、くるっと傾けられ、ミキシンググラスの中に注がれる。続けて、もうひとつ並べられた瓶からも液体が注がれる。
カラカラカラカラ。
またステアをする音がする。
グラスに顔を近づけ、香りを確かめる。きっと何回混ぜるかは決めているんだろうけど、最後は感覚に頼るようだ。静かに頷き、カクテルグラスに注がれる。
「はい、どうぞ」
差し出されたグラスに顔を近づけ、香りを楽しむ。しっかり冷えているので香りが立つわけではないけれど、その中にふわっと香るマティーニ独特の香り。
あぁ、そうそう、これ。
自分の中で確認をして、口を近づける。
くいっと、少し多いかと思うくらい口に含む。
口に含むと同時に強いアルコールを感じる。すぐに喉には流さずに、アルコールの刺激を少し楽しむ。体温でマティーニの温度も少し上がる。ジンの味、香りが口いっぱいに広がる。マティーニの温度が上がりきらないくらいで、コクンと喉に流す。喉でも強いアルコールを感じる。
「うん、美味しい」
そう言ってみるものの、マティーニの味なんて、正直よくわからなかった。何度か飲むうちに、これが美味しい味なんだっていうことがわかったくらい。
それでも、ときどき、飲みたくなった。
いや、飲みたいんじゃない。眺めたかった。
マティーニを作ってくれる姿を。
会社帰りに、立ち寄るお店。
お酒が目当てと言っていたけれど、本当は会いたい人がいた。
行けば必ず話すことのできるバーテンダー。
私は彼に惚れていた。
マティーニはシンプルな材料、手法で作られるから、バーテンダーの技量が試される飲み物らしい。
だからなのか、「マティーニ飲みたい」と言っても、「今日はムリ。代わりにこれ飲んどけ」と、断られることもあった。普通なら、いや、客なのに、と思うところだけど、そんな扱いさえ、ちょっと嬉しかった。
こちらから「飲みたい」と言っても作ってくれないのに、ときどき、練習といってマティーニを突然作り始める。
マティーニを作るときは、彼は集中していた。だからカウンターを挟み、正面でじっと見つめていられた。カクテルを作る姿に興味があるフリをして、普段は見つめることのできない、表情を、指先を、見つめていた。
バーテンダーとはいえ、スマートという感じはなく、ワイルドさがある人だった。
それでも、そのワイルドさの中にある、カクテルを作るときの繊細さが好きだった。
「好き」だとは言う勇気はなかった。
言わなくても、よかった。
姿を眺めているだけでよかった。
でも、心の奥の方では、何か起こらないかと、期待していた。
お酒に酔った勢いで、なんてことがないのだろうか。ちょっとした間違いで。そう、間違いでよかった。
ただ幸か不幸か、酔って記憶をなくすことなんて、なかった。
酔って理性をなくし、暴走することもなかった。
やたらお酒に強い、礼儀正しい飲み方をする、そんな人になっていた。
いい子になんて、ならなくてよかったのに。
マティーニの、ほろ苦さを思い出すたび、ちょっと昔のほろ苦い恋を思い出す。
久しぶりに、マティーニが飲みたくなった。