お昼の情事に酔いしれる。
「すいません、注文を」
「はい、何にしましょうか?」
「おろし蕎麦を」
「かなり辛いですが、大丈夫でしょうか?」
「はい、大丈夫です」
では、と店員さんが去ろうとする。
あ、ちょっと待ってと呼び止める。
せっかく蕎麦屋に来たのだから、蕎麦だけではもったいない。
「ビールの小瓶と、にしんの棒煮もお願いします」
休日の昼の密かな楽しみ。
ごはんと、ちょっとだけのアルコール。
つい、頼んでしまう。
ただ、昼間のビールの注文は、まだちょっと恥ずかしい。
ファーストキスほどの恥ずかしさではないけれど、カラダの関係ができて数ヶ月の相手との、その日会って最初のキスくらいの恥ずかしさ。
キスは慣れたけれど、会って最初はやっぱりちょっと恥ずかしい。
それでも、キスをすることで恥ずかしさ以上の幸せを感じてしまう。
これから起こることへの期待だったり、温もりを感じることの安心感だったり。
昼間のビールは、最初のひとくちを飲んでしまえば、スーッと自分の世界に入ることができる。
私、昼間から飲んじゃってるんだ、ってウキウキする気持ち。
そして、ほんの少しの背徳感。
そう、後ろめたさがビールを更においしくさせる。
しかも瓶ビールに合った、小さめのビールグラス。
視覚も味覚も満足する。
一杯目をあけたところで、にしんの棒煮がやってくる。
京都のにしん蕎麦の上に乗ってる、にしん。
いい大きさに切られている。
ひとくちかじり、ビールをひとくち。
あぁ、これは日本酒の方がよかったかな。
そう思いつつも、ビールの喉越しはたまらない。
この気持ちはそう、タイプの違うふたりの男性に揺れる恋心のよう。
ひとりはスポーツマンで友達がたくさんいる、人気者のカレ。
好きなんだってストレートに言ってくれるような人。
もうひとりは、いつもひとりで本を読んでいる、もの静かなカレ。
口には出さないけれど、行動から好きの気持ちが溢れてくる。
ふたりとも正反対なんだけど、どこか惹かれてしまう。
どちらかを選べだなんて、私にはできないの!
今度来たときには、日本酒にしようと心に誓う。
にしんを半分くらい食べたところで、おろし蕎麦がやってくる。
つゆをお猪口に入れて、まずは薬味を入れずにひとくちすする。
つゆが美味しい。
次は辛味大根を少し入れて、絡みを確かめるようにひとくちすする。
あぁ、まだビールがあったんだと思い出し、コクリとひとくち飲む。
次は……。
一度に全てを楽しむのではなく、段階を踏んで少しずつ少しずつ楽しみを積み重ねる。
楽しみの層が積み重なるにつれて、幸せも2倍3倍と増えていく。
あっという間に蕎麦がなくなる。
さて、つゆがまだある。
薬味もある。
うーん。
ここはやっぱり。
「ざる、もう一枚ください」
頼んでしまった。
でも、このまま終わるには。
ビールもにしんも無くなってしまったけれど、
もう少し、もう少しだけ……。
「田舎蕎麦も選べますけど、如何ですか?」
なに!?
「じゃ、それで」
まだ私を翻弄して楽しませてくれるのね。
「田舎蕎麦です。お好みで塩でどうぞ」
そう!
ちょうど、塩で食べたいと思ってたの!
そんなことまでしてくれるのね。
もう、あなたの虜になってしまいそう。
そんなことを呟いてしまいそうな気持ち。
「蕎麦湯です」
最後はこれがなくては。
温かくて少しとろみのある蕎麦湯にいやされる。
コトを致した後に、そっと包み込んでくれるようなハグにほっとする、そんな気分。
あーおいしかった。
とても私は満足です。
ただ、ひとつだけ。
もうひとつだけ、わがままを言ってもいいかしら。
今日のお店は、天ぷらが、なかった。
蕎麦屋なのに、天ぷらがないなんて!
あなたをいいなと思った瞬間に、薬指の指輪を見てしまった。
せっかく好きになれそうだったのに。
いや、たぶん好きになってる。
好きなのに……。
完全に私を満足させてくれる出会いはあるのかしら……。