歩き疲れてたどり着いた先に
※この話はフィクションです
どれくらい、ここにいるんだろう。
向かい側のホームに夕陽が差し込んでいる。
灰色のはずのコンクリートが橙色に染まる。
「間も無く電車がまいります」
ホームにアナウンスが流れるけれど、立つ気力がわかない。もう少しだけ、座っていよう。いま、何時なんだろう。いつも暗くなってからしか会社を出ないから、いまの季節の、日の沈む時間がわからない。
まぁ、何時だろうと、関係ない。もう誰とも約束をしていないし、家に帰ったところで待っている人もいない。
……ほんとうは、彼と一緒にいる予定だった。前から目をつけていた和風の創作居酒屋に行こうと思っていた。雑誌に載っていて人気のお店だけど、開店と同時に入れば、ふたりくらいなら入れるかなって。だから、今日の待ち合わせは夕方にしたのにね。
彼の誕生日が来月だから、プレゼントの下見をしようと、少し早めに家を出た。
今度、コンペがあるって言ってた。そのときに、新しいネクタイをしてカッコよくキメてほしかった。
「これって、他の色はあるんですか?」
赤がベースの、ストライプのネクタイを手にしていた。ストライプの細さとか、いい感じだけど、この赤はちょっと彼には赤すぎる気がする。
「はい、ございます。今、お出ししますね」
「お願いします」
「えーっと、あれ? この辺にあったはずなんですけど……」
店員さんがあちこち引き出しを開けている。ないのかな。
「すいません、違うところに置いてあるみたいなので取ってきますね」
百貨店で買い物をするのは、なかなか慣れない。ちょっと気取ってみるけれど、自分が場違いのような気がしてしまう。
違う店ものぞいてみようかな。
まだ、待ち合わせの時間は大丈夫そうだ。
「今日の夜、どこに行くー?」
「あ、今日は友達と約束があるんだ。ごめんな」
後ろで、カップルの声がした。
「えー、今日はずっと一緒にいられると思ったのにー。一緒に行っちゃダメ?」
「ダメだよ。友達に相談に乗ってほしいって言われてるんだ。真剣な話をするのに、初対面の子がいたんじゃ話しにくいだろ?」
あれ? 彼と声が似てる。まさか。
彼ではないことを確認するために、静かに振り返る。
ノースリーブから出る腕を絡めて、キョトンとした顔でこちらを見る女の子。ショートカットが似合う小顔。
その左側を見た。
彼と目が合った瞬間、時が止まった。
私の周りから、一瞬で音が消えた。
手にしていた赤いネクタイから、色が消えた。
いっそのこと、本当に時間が止まってしまえばよかったのに。
もし、プレゼントをネクタイじゃなくて万年筆にでもしていたら、だし巻き卵をふたりで食べることができたのかな。
「お待たせいたしました。こちらがブルーベースで、こちらが……」
「あ、いいです。また来ます」
店員さんが言い終わる前に、出口に向けて歩き出す。
「あ、待って」
声が聞こえた。でも、振り返りたくはなかった。
あの子は彼女? だったら私は? あの人、あんなに甘えたような声を出す人だったっけ? 彼女の腕を振り払おうともしなかった。私とは、外では恥ずかしいからって、手を繋ぐこともほとんどなかったのに。私の知らない人? 知らない人であってほしかった。
夢なら覚めてほしい。
さっき見た光景を振り払いたくて、早足で歩く。遠くに行けば、あの光景は薄まって、嘘になるんじゃないかって。何かに追われるかのように、どんどん街を歩いていく。
「なんでこんなに落ちてるの!」
誰かが落としてしまったであろう、ポップコーンを掃除をする。
大学生のころ、Jリーグの試合でバイトをしていた。試合前の設営からチケットのもぎりや、指定席の案内。そして試合後の掃除まで。
「ポップコーンを販売禁止にすればいいのに。毎回のように誰かがぶちまけてるし……」
ブツブツ言いながら、仕事だからしょうがないかと掃き続ける。
「佐藤さん、ひとりごと、大きいよ」
「あ……」
「まぁ確かに、ポップコーンが嫌いになりそうだけどね」
そうやって話しかけてきたのが、彼だった。
大勢のバイトの中で、しかも月に数回歩かないかのバイトで、ずっと仲良くする人はできなかった。それでも、仕事の合間にサッカー観戦ができることや、選手と近い距離ですれ違うことができることが楽しくて、バイトは続けてきた。
彼に話しかけられたのがきっかけで、バイトが更に楽しくなった。誰にでも話しかける彼はバイトの中でも人気者で友達も多く、その近くにいる私も、友達が増えた。
バイト仲間と、バイト以外でも会うことが増えた。
彼とは、それ以上に会うことが増えた。
付き合うことになったのは、自然の流れのようだったと、思う。
大学を卒業してからも、付き合いは続いていた。
結婚するのも、自然の流れのようにいくんだと、思っていた。
土日休みの、普通のサラリーマンの彼。
普通のサラリーマンだけど、休みは不定休の私。
すれ違いは、仕方がなかった。
会っても、飲みに行って、ホテル行って。
朝が早いから泊まることもなく、終電までには帰る。
今日も、デートらしいデートは、1ヶ月ぶりだった気がする。
久しぶりに休みが合ったから、朝から会えると思っていた。そうしたら彼が、予定が入ったから、と言って、待ち合わせの時間が夕方になった。
予定って、あの子とのデートだったのかな……。
もう、歩けない。
どこまで歩いたかもわからなくなって、どこに来たかも、わからない。歩き疲れて、吸い込まれるかのように、どこかの駅のホームにたどり着く。
ベンチに座る。
もう、何時間くらい、ここにいる?
電車が出ていく音がする。
帰らないと行けない気もするけど、家に帰ってしまったら、今日の出来事が本当のことになってしまうような気がする。
「あれ? 佐藤?」
頭の上で声が聞こえる。音がなくなってしまったかと思ったけど、ちゃんと聞こえる。
「家、近くだったっけ?」
声のする方を見る。
「あ」
なぜか、会社の先輩の、丹羽さんが、いた。
「あ、じゃねーよ……」
笑っていた顔が、ふと真顔になる。
「……メシ、食いにいくか」
「たべたく、ないかも」
「俺が食べたいんだ。業務命令だ。付き合え」
業務命令って。仕事じゃないし。
「いいです。もう、帰るところなので」
ベンチと一体化してしまったんじゃないかと思うほど、体が重い。
力をふりしぼって、体を上げる。
「痛っ」
「どうした? うわ、すげー靴ズレしてるぞ」
そう言うと、丹羽さんは何やらごそごそしている。
確かに、すごい靴ズレ。可愛いって言ってほしくて、新しいサンダルを履いてきた。そのおかげで、アキレス腱の部分と右足の小指に水ぶくれができていた。それが破れちゃって、なかなか酷いことになっている。
「ほら、これ履け」
赤いビーチサンダルが置かれる。
「ちょっとでかいけど、痛いよりいいだろ」
いや、でかいって、度がすぎる。私の足より、ふた回りくらい大きい気がする。
「ほら、行くぞ」
私のサンダルを、ビーチサンダルが入っていた袋にひょいっと入れて、丹羽さんは歩き出す。
ぺたん、ぺたん、ぺたん。
大きさの合わないビーチサンダルの音が響く。
カラカラカラカラ。
丹羽さんが引いているママチャリからも、音がする。
ちょっと、意外。
会社だと、スーツをピシッと着て、いいバッグも持っているから、ママチャリなんかじゃなくて、イマドキの自転車に乗ってるんだと思ってた。
「佐藤、鏡は持ってるか?」
ふいに、丹羽さんが言う。
鏡は、持ってる。なにか使うのかな?
「はい」
「ちょっと待っとけ」
そう言うと、丹羽さんはコンビニの前で止まり、店内に入っていく。
どうしたんだろう? 鏡を持ってるか確認して、コンビニに行くって。
まぁ、あんまり動きたくもないから、言われた通り、待っている。
「ほら、これ」
……メイク落とし?
袋の中を見ると、メイク落としシートが入っている。
「まーまー酷い顔してるから、落としたほうがいいぞ」
そう言うと、また歩き出す。
酷い顔? よくわからないけれど、とりあえず鏡で自分の顔を確認する。
「うわっ! やばっ」
マジでヤバい。鼻全体は脂でテカテカ。鼻の頭と頰は、真っ赤。目元は悲惨だ。パンダどころの騒ぎじゃない。メイクはドロドロに溶けて、もうホラーとしか言いようがない。
そっか。
自分でも気づいてなかったけど、泣いてたんだ。泣きながら歩いて、汗もかいて。それを放置すれば、こうなるよね。
「……洗いたい」
洗いたい。洗い流したい。
もう、なにもかも、洗い流してしまいたい。
「丹羽さん」
「んー?」
「家、行っていいですか?」
「俺を襲う気か?」
「襲いませんよっ! ……顔、洗わせてください」
「おー、いいぞー。どうせ、家の下にある焼き鳥屋に行くつもりだったし」
顔をきれいに洗って、焼き鳥を食べて……。
明日からのことは、それから考えよう。
《おわり》